
- 用地屋が誇りを持ち、輝いていた時代
- 用地部門も「係長行政」「補佐行政」
- 責任者のペアガシラと、技を盗むカバンモチの二人組
若手の用地職員が離職してしまう課題を解決するべく、孤軍奮闘している田中。チーム用地の用地取得マネジメントを学んだり、博士に与えられた課題について調べたりしているうちに、採用されたばかりの若者と再任用のベテランとの間にいるべき中間世代がいないことがこの問題の核心だという結論にたどり着きました。しかし、どうすればその世代間対立を埋められるのか、まだまだ見当がつきません。今回はそのヒントを見つけるべく、社内にいる大ベテラン・中鶴さんに、経験談を聞くことにしました。
田中が話を聞くことにはしたのは、社内のベテラン中鶴さんだった。
みんなから「鶴さん、鶴さん」と慕われている中鶴さんは、話しやすく明るくて、何事にも前向き。頼まれたら嫌とは言わない人柄で、言動も行動も元気そのもの。連日用地交渉の現場に出て行きながら資格取得にも取り組み、昨年、補償業務管理士7部門に登録したのも大変なことなのにひけらかすこともなく、「今年は総合補償士に挑戦だ!」と意気込んで周りを驚かせている。70歳を越えた大ベテランにも関わらず、社内の誰からも慕われている存在だ。
そんな中鶴さんだから、田中の依頼にも一発OK。
田中は会議室を用意して、改まって話を聞かせてもらうこととなった。
「成長」に含まれるニュアンス
「私がこの会社に就職した頃は、大阪万博(1970年開催)後の未整備区間の用地買収を進めていたね。用地部には用地1課から9課まであって、100人を超える用地職員がいたんだよ」
鶴さんの話は最初から衝撃的だった。これまで用地職員がほとんどいない職場の話ばかり聞かされてきたので、100人も用地職員がいるということすら、にわかに信じがたい。
「万博のための道路整備で、緊急に用地取得をしなければならなった時代の後だったから、入社するなり先輩からその当時の武勇伝をよく聞かされたよ。嘘か真か指先に包丁を突き立てられたとか、日本刀を振り回されたとか、バットで殴られたとか、この辺りでの交渉中にやくざの出入りがあって鉄砲玉が飛び交ったとか、神棚と長い赤提灯がたくさんぶら下がった事務室に何時間も監禁されたとか...。少々誇張されているかもしれないけれど、そんな武勇伝を楽しそうに先輩たちは話していたんだよね」
「そんな話を聞いたら腰が抜けますよね。会社を辞めようとは思わなかったんですか?」
知っている状況と違いすぎて、ついつい、こんなことを聞いてしまった。
「全然!不思議なことだけどね、その時代の用地屋には用地屋なりの誇りみたいなものがあったんだろうね。職場にエネルギーがみなぎっていたし、活気にあふれていたよ。今から考えれば変かもしれないけれど、精神的に病んだとかしんどくなった人とかはいなかったね。用地から他部署に異動になったら公団辞めてやると言っている人がいたぐらいだ」
用地屋が輝いていた時代だったんだ。
今は離職や不正などネガティブなこともよく聞くけれど、当時はどうだったんだろう。
用地部門も「係長行政」「補佐行政」
「そんなすごい勢いの中で大阪万博が終わると、そこからが我が社にとって苦しい時代だった。日本の高度成長に伴って、公害がひどくなり、阪神高速は『公害道路』のレッテルを貼られてしまって、国道43号訴訟や尼崎訴訟を起こされた。各所で高速道路建設反対運動が活発になって、建設も止まってしまった。特に松原線と大阪西宮線は長らく開通できなかった。当時は車の性能も悪くて、荷物を大量に運ぶ大型車はディーゼルエンジンで黒い煙を巻き上げていたんだよ。ETCもなかったしね。この万博後の時代に阪神高速は環境対策に一生懸命取り組み、環境施設帯の制度をつくったんだ」
「えっ、今の日本にある環境施設帯の制度は阪神高速が発祥ですか?」
「そうだよ。それくらい関西、阪神地域での高速道路建設は難しかったということでもあるけどね」
鶴さんの話は面白そうだし、ずっと聞いていたい。それに質問したいこともたくさん。でも今日聞いておきたい話は、鶴さんが先輩方にどんな風に育てられたのかということ。この辺りで軌道修正をするしかない...。
「鶴さん、あの、いろいろ聞きたいことはたくさんあるし、これまでの話も興味深いのですが、今日は鶴さんが用地屋としてどう育てられたか、どう育ったかということなんで、その辺のこともお話しいただけますか?」
「おお悪い、悪い。でも、時代背景をわからないとわかってもらえないこともあるから、もう少しだけ聞いてほしい」
つい時計を見てしまったけれど、関係がある話なら聞いておかないと。
万博を契機に大阪が発展していた時代、本当にすごい発展だったんだろうな。
阪神高速開通年(総延長100KM~200KM)
1980年 松原線(14号松原線山王~松原JCT間11.2km)
総延長100km到達 1981年 大阪西宮線(3号神戸線西本町~西宮IC間14.3km)開通

1985年 北神戸線開通(7号北神戸線伊川谷JCT~前開間5.2km)開通
1994年 湾岸線(湾岸線(2区間31.1km))開通
総延長200km到達
「今思えば、阪神淡路大震災が起こる1年前、1994年湾岸線が関空から六甲アイランドまで全線開通し総延長が200kmを突破したんだけれど、その辺りまでが用地屋の表舞台の時代だったのかな。まだ『係長行政』とか『補佐行政』とかいう言葉があった時代だよ」
「えっ?『係長行政』『補佐行政』?何ですか、それは?初めて聞いたんですが、それは私が聞きたい話に関係がありますか?」
「大いにあるよ。公団もそうだったけど、『係長行政』『補佐行政』は府県や市町村の行政方針の多くを係長や課長補佐が中心になって決めていた、ということを表す言葉だね。その当時は職員の年齢構成がすごく若かったから、ちょっと言い方は悪いけど、管理職は決裁にハンコを押して責任を取ってもらえばいいです、大きな方針だけ示してくれれば本でも新聞でも読んで過ごしてください、という感じだったんだよね。担当部長や担当課長、副課長なんてポストはそもそもなかった。1つの課の人数が多くて、管理職は課長だけって感じだったなぁ。まあ、それは今回の話とは関係がない。関係があるのは、用地部門も『係長行政』『補佐行政』だったということだ」
今は管理職だらけで年齢構成の真ん中の職員が少なく、その下になる若手社員が離職して困っている状況だから『係長行政』『補佐行政』というのはちょっと信じられない。若い人が活躍して色々な決断をしていたなんて、本当に元気な業界だったんだな。
責任者のペアガシラと、技を盗むカバンモチの二人組
「そんなに眉を潜めなくてもいいだろう。『係長行政』と『補佐行政』、しっかり覚えておくこと。阪神公団の用地部門では、係長は用地役と呼ばれ、課長補佐は専門役と呼ばれていた。今も用地交渉は2人で行くじゃないか。その2人をペアというだろう?その用地交渉ペアの責任者をペアガシラと呼び、下の方をカバンモチと言ったんだ。このペアガシラが用地役か専門役で、カバンモチが用地配属が初めてか短い、入社10年未満の職員だった。用地役と専門役は理事長の名代で交渉権限と責任を一手に握っていたし、そういう気概にあふれていた。ペアガシラの交渉方法はまさに千差万別だったけれど、とにかくその人のやり方で契約を取ってくる戦略や戦術を自分で必死に工夫していたな」
「カバンモチというのは、結構差別的な呼び方ですけど大丈夫だったんですか?」
「今思えばそうかもしれないが、当時はそんな意識はなかったな。そして、ここからが聞きたい話だと思うんだけど、カバンモチはペアガシラの横について、ペアガシラの『技(ワザ)』を盗んで自分のものにしていったんだよ。何人かのペアガシラにつくことでいろんな技を習得できた」
「なるほど。職人のような世界ですね」
「でも結論から言えば、どのペアガシラも一人前の用地屋とはこういうものだという部分は共通していた。一人前の用地屋は権利者の方が自分からどんどん話すように仕向け、それをきちんと聴けるようになり、権利者の方の真意を聴きだせるようになることだとペアガシラたちは言ってたな」
「『相手の話をよく聴けよ』なんて教えてくれたんですか?」
「そんなことを教えてくれた先輩は一人もいなかった」
「じゃあ、どうしてそんな技が必要だと思ったんですか?」
鶴さんの表情が曇ってきた。
どうしよう、機嫌を損ねてしまったのかな。
「やっぱり、田中さんもマニュアル世代かい?何かに正解が書かれていて、それを実践すればうまくいくというような。そんなコンビニのアルバイト店員のような対応をされて、公共事業に自分の土地を提供しようと考える奇特な権利者の方がいらっしゃると思うかね?」
「そりゃあ、、いないですよね」
「そうだ。今の言葉でいうと『誠心誠意』交渉するということになるんだろうけれど、それは相手に合わせて。技でいえば『共感する』というんだが、共感とは相手の気持ちをわかることでも、相手のことを理解することでも、相手の考えに賛同することでもないんだ」
え?どういうことだろう。
共感といえば、相手の気持ちを感じて"その通り"と思うことでは...。何だか話がそれていっている気もするけれど、この話は大事な経験談だから聞いておかねば。
「用地交渉をやったことがない人にこの話を頭ごなしにしてもわからないと思うから別の角度から話をさせてもらうよ」
「お願いします」
覚悟を決めたように首を縦に振る田中に、鶴さんは微笑みながら話を続けていきます。昔の用地ペアがどんな生活をしていたか、鶴さんの具体的な経験談は次回をお待ち下さい。